2021年の初夏、サッカー界に衝撃が走った。J1の常勝軍団サンフレッチェ広島が、格下も格下、J5リーグ相当のアマチュアクラブに5対1という屈辱的なスコアで粉砕されたのだ。日本中が「おこしやすの奇跡」と呼んだこの歴史的ジャイアントキリングは、多くのファンの記憶に深く刻まれている。
しかし、あの奇跡を起こしたチームのその後の波乱万丈な物語を知る人は少ないのではないだろうか?栄光の裏にあった試練、ピッチの外でのユニークな挑戦、そしてどん底からの復活劇。この記事では、単なる試合の振り返りでは終わらない、おこしやす京都ACというクラブの知られざる5つの物語を紐解き、その奥深い魅力に迫っていく。
「奇跡」を演出したのは、サッカー未経験の分析官だった
広島戦勝利の最大の立役者の一人が、分析官の龍岡歩(たつおか あゆむ)氏だ。驚くべきことに、彼は「まともにボールを蹴ったことがない」と語る、選手経験ゼロの異色の経歴の持ち主である。元々はサッカーショップの店長で、趣味で書き続けていた戦術ブログがプロの目に留まり、J3の藤枝MYFCを経て、おこしやす京都ACの分析官に就任したという現代的なキャリアを歩んできた人物だ。
では、なぜ格上のJ1クラブに圧勝できたのか。その裏には、龍岡氏の緻密な分析とロジックがあった。彼の分析はまず、J1クラブの天皇杯に対する姿勢の分析から始まった。過密日程の中、平日に開催されるカップ戦では主力を温存するターンオーバーは常套手段。彼はその傾向をさらに深掘りし、広島がひと月前のカップ戦で見せた選手起用、交代パターン、勝っている時と負けている時の采配の傾向を徹底的に洗い出した。その結果、試合当日のスターティングメンバーを11人中9人まで的中させるという驚異的な精度を見せたのだ。相手が格下である自分たちの情報をほとんど持っていないという「情報の非対称性」も、大きなアドバンテージとして作用した。
試合前、監督ですら「10回に1回勝てれば」と思っていた中、龍岡氏は冷静に勝利の可能性を見抜いていた。彼の言葉が、その分析の確かさを物語っている。
試合前に『この試合勝てるよ』って言ったら、チームのみんなに笑われました(笑)。監督ですら10回に1回でも勝てたら良い方だと思っていたみたいなのですが、僕は10回やったら3回くらいはいけるかな、と思っていた。
サッカーはプレーするだけじゃない。「脳内選手」という新しい関わり方
龍岡氏の仕事は、相手チームの試合をチェックし、戦力や状況を分析して「カルテ」のような最善の戦略を提案することだ。ピッチ上の22人を駒として動かす、チーム唯一の「脳内選手」とでも言うべき存在である。
その原動力は、純粋で、どこまでも深い情熱にある。中学1年生でJリーグ開幕戦に衝撃を受け、サッカーにのめり込んだ。高校卒業後は約9年間フリーターとして働き、貯金が貯まれば海外まで試合を観に行くという生活を続けた。その圧倒的なインプット量が、選手経験はなくとも誰にも真似できない独自の分析眼を養ったのだ。
龍岡氏は、自身のキャリアを通して新たな道を切り拓こうとしている。「サッカー選手ではなくても自分のような携わり方があることを知ってもらい、サッカーオタクたちへ道を示せるようになりたい」。彼の言葉は、プレーヤー以外の形でプロサッカーに貢献する道があるという重要なメッセージを伝えている。彼の存在は、ピッチ上の戦い方がデータとロジックで覆されうることを証明した。しかし、そんなロジックだけでは割り切れないのが、スポーツの厳しさであり、ドラマでもある。
栄光の裏にあった試練。ファンも涙した2部への降格
奇跡的な勝利から2年後の2023年、クラブは厳しい現実に直面する。関西サッカーリーグ1部で最下位となり、2部リーグへの降格が決まったのだ。栄光からの転落は、選手だけでなくファンにも大きな痛みをもたらした。
あるファンブログには、当時の苦しい胸の内が生々しく綴られている。シーズン当初から不安要素を抱えながらも「いつかは状態が上向く、まだ大丈夫と思っている間に試合が消化され」、望みを懸けた試合にも勝てず、ついに降格が決定。そのショックから「記事を書く気力が一切湧きませんでした」という言葉に、ファンの深い悲しみが滲む。
しかし、この降格は単なる失敗ではなかった。ファンが「おこしやすがある限り応援し続けます」と綴ったように、クラブとサポーターの絆を再確認し、次なる飛躍へと向かうための重要な一過程となったのだ。
単なるサッカークラブではない。京都の企業と成長する「ビジネス実験」
おこしやす京都ACのユニークさは、ピッチの外での活動にも色濃く表れている。クラブは「プロサッカークラブのビジネス活用」という独自の理念を掲げ、地元企業との新しい関係性を築いているのだ。この哲学を牽引するのは、史上2人目の「東大卒Jリーガー」という経歴を持つ代表の添田隆司氏である。
新卒採用の合同説明会。数多の企業ブースが並ぶ中、建設会社の明清建設工業のブースには例年の2倍もの学生が足を運んだ。彼らの目を引いたのは、ユニフォーム姿の選手たちの写真と「おこしやす京都AC」のロゴ。これは単なる偶然ではなく、クラブを前面に出した採用活動が劇的な効果を生んだ瞬間だった。
また、あるIT企業ユニバーサルトラストは、クラブとの縁がきっかけとなり、大学との共同研究をスタートさせた。スポーツ選手のコンディションを把握する研究は、今や新規事業開発へと繋がっている。
これらの事例は、おこしやす京都ACが単に試合に勝つだけでなく、地域経済の活性化にも貢献する、新しいクラブのあり方を模索していることを示している。
復活劇は始まっている。元Jリーガーの新・選手兼任監督と共に
2023年の降格という屈辱から1年。クラブの復活劇は、すでにはっきりと始まっている。クラブは2024年シーズンに関西サッカーリーグ2部で見事優勝を果たし、2025年シーズンからの1部復帰をその手で掴み取った。
この復活を牽引する新たなリーダーとして、2025シーズンから元Jリーガーの清武功暉選手が選手兼任監督に就任。Jリーグでの豊富な経験を持つ彼が、選手としてピッチに立ちながらチームの指揮を執る。就任にあたり、清武選手兼任監督は力強くこう語った。
「地域の方々、パートナーの皆様と一体となり1部昇格目指していきたいと思います」
新たなリーダーシップのもと、クラブは再びJリーグ昇格という大きな目標に向かって再出発を切ったのだ。
結び:未来への問いかけ
分析官の「脳」、経営者の「算盤」、ファンの「心」、そして選手の「足」。おこしやす京都ACの物語は、これらがいかにして一つの目標に向かって交差し、時にぶつかり、そして再び結束するかの記録である。奇跡も、挫折も、革新的なビジネスも、すべてはその過程に生まれた必然だったのかもしれない。
奇跡は再現できるのか。ビジネスは成功するのか。数多の問いを背負い、この異色のクラブは再びJリーグへの坂道を登り始める。その結末を、私たちはまだ誰も知らない。
以上です。
ご一読ありがとうございました。


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